反哲学史
木田元 著
「反哲学史」という題名については、「哲学史に反対する」ものでも「哲学に反対した反哲学の歴史」でもないという断りがはじめに書いてある。
哲学というものをあまりありがたいものとして崇めまつるのをやめて、いわば「反哲学」とでもいうべき立場から哲学を相対化し、その視点から哲学の歴史をみなおしてみようということ
もともとは大学の一般教養科目の「哲学」の講義ノートを元にしたものだそうで、基本的には通常の哲学史の本である。
「わたしの哲学入門」にも書かれていたが、著者木田元は「西洋文化形成のイデオロギーともいうべき哲学を日本で勉強することの違和感」を感じていて、その解決策としてそれを相対的に見る「反哲学」という立場に辿り着いたという。「反哲学」という名称にはインパクトがあるが、基本的に歴史上の哲学者を見ていると、彼らは過去の哲学者たちの考えを一歩引いたような形で徹底して解読するもので、木田元が言う「反哲学」の立ち位置というのはおそらく西洋的にもそれほど特殊なものではないのだろうと思う。
この本は歴史に沿って哲学者個人の話を中心に進んでいくので、ソクラテスより前の人々の時代からスタートする。個人的にこの時代の哲学者というと、「万物は水」だと言ったタレス(タレース)や「万物は火」だと言ったヘラクレイトスという名前を世界史で習ったことから思いつくが、彼らの名前もこの本に出てくるものの、そう幼稚な話をしていたわけではないらしい。
「ソクラテス以前の思想家たち」というのをこの本ではその意味のドイツ語の「Vorsokratiker」から「フォアゾクラティカー」と呼んでいる。ちなみに日本語で「ソクラテス以前の人」というと「以」の算数的な意味(「以上」とか「以下」とか言う場合)から考えるとソクラテス自身も含まれそうな気がするが、少なくともこの本を読む限りは、「ソクラテスが登場するより前の人たち」という意味で使われている。木田元がそう使っているならそれが正しいのだろう。個人的には「ソクラテス以前」というと確かに語感としては「ソクラテスが出てくる前」という印象を受ける。そして「ソクラテス以降」というと「ソクラテスを含めてとその後」という印象を受けるので、それが現在の日本語として公式に正しいかどうかは別として、この意味で使っている人が多いのではないだろうか。
閑話休題、この本はそこからソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェなど、哲学者個人を中心にその思想が書かれている。面白いのは、それぞれ哲学者の思想の紹介の前に、必ずその人の生い立ちとか、人間性が伺える話が添えられている。それは話をする(本を書く)上での筆者の工夫でもあるだろうが、哲学というのはそれだけ人間(哲学者)を中心に考えられるべきものだということではないだろうか。
それぞれの時代の哲学者は、自分より前の哲学者の考え方を深く理解することを試みて、常にそれと同レベルで賛同したり批判したりしている。なのでその時代の哲学というのは、それより前の時代の哲学を踏まえていはいるが、単純に上に積み重なったものではない。この本を読んでいて、2000年前後の短い時間ではあるが、その間の人類の進歩というよりは、進化の過程を見ているような感じがした。
更に、特に西洋の哲学というのは社会に対して大きく影響を与えていることが印象付けられた。もちろん宗教的な背景というのはあるのだが、思想として文化や科学の発展に寄与してきたことは間違いないのだろう。
長い目で人間を見ていると、技術の進歩によって人間の生活は基本的には良いものになっている。より清潔になり、健康になり、寿命も長くなっている。こうした良い面について、単純に技術の進歩に人間が邁進した結果であると見ることもできるだろうが、おそらくそれだけではなく、そこには常にその時代の人間としての徹底した思想や思考があり、意図した形かどうかは別として、それによって社会全体が導かれてきた結果なのだと思う。
結果的にこの本は「わたしの哲学入門」の後半とかなり似た内容で同じような話が書いてある部分もあったが、違う本で同じ話を読むのはそれはそれで意味がある気がした。「追思考(ナーハデンケン)」しようとしたわけではないが、続けて読んで良かったと思う。
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