2019年4月24日水曜日

わたしの哲学入門


わたしの哲学入門
木田元 著


1998年4月10日 初版第一刷発行

私が手にとったのはハードカバーの本だったが、2014年に文庫版が出ている。ちなみに著者木田元は1928年生まれの哲学者。東北大学出身、中央大学で長く教授を務めていた人で、その2014年に亡くなっている。一言でいうとすごく面白い本だった。もちろん一回読んだだけでは何もわからないが、とんでもない世界に触れてしまったという感想。

この本の中で著者もそのことを少し書いているのだが、本というのは読む側としては導入部分、書き出しの部分が大切だと個人的にも常々思っている。私の好きな書き手について考えてみれば、彼らはそこが圧倒的に上手く、冒頭を少し読み始めるとガッチリ掴まれて離れられなくなる。おそらくすべての文筆家がそこに腐心するものなのだろう。

その意味でもこの本は非常に優秀だった。「哲学入門」という題名からして、哲学に興味はあるが、全くわかっていない人が手にとって読み始めることが前提の本である。

哲学にひどく心を惹かれながらうまく近づくことができず、ずいぶん苦労した覚えがあるので、あの頃の私と同じような気持ちの人たちをもう少しうまく哲学へ案内してさしあげたいと思ったからである。

そして序盤は「哲学のどこが難しいか」という誰でも共感できるような素朴な話から始まって、著者自身の人生と体験から哲学に興味を持つまでの過程と勉強の方法といった話に続いていく。この人の人生自体波乱万丈で、(こう言ってはなんだが)面白い。そして本全体を通してだが、それを表現する文章が上手い。

哲学」とは何かがよくわからない以上、「哲学者」というのは何なのか、というのはもっとよくわからないわけだが、この本を読んで思ったのはとにかく言葉を巧みに使う人たちであるということだった。この本は見たこともないような漢字の熟語にドイツ語やラテン語のルビがふってあるような難解な哲学上の言葉が多数出てくるのだが、そういう意味だけではなく、木田元は文章として日本語の扱いが上手くわかりやすい文章を書いている。普段他の本ではあまり目にしないような文学的な熟語を自然に使っていたりもする。

著者は大学入試の半年前に中学校レベルから英語の勉強を始めて合格し、大学1年目にドイツ語、2年目にギリシア語、3年目にラテン語、大学院1年目にフランス語を習得した(当時の大学は3年制だったそうだ)とのことである。多少自慢話のようになるが他の人にも応用して欲しいので、と断った上で、その勉強方法も紹介しているが、凡人にはあまり参考にならなそうな気もする。

同じような話をトロイアの発掘で有名なシュリーマンの自伝で読んだことがある。この人も短期間に次々言語を習得していて、その勉強方法も書かれていた(多分に自慢話的だった覚えもある)が、とても参考にはならないなと思って読んだ。内容は木田元がやったことと似ているところもあったと思う。少なくとも「短期間に言語を習得できる人が世の中にはいるのだ(だからもしかしたら自分にもできるかもしれない)」くらいの認識としては役に立つだろう。

外国語の哲学書を読むときは最初四分の一程度を丹念に辞書を引きながら読んでいくと、その著者の文体に慣れ、残りは存外に楽に読めるものなのだそうだ。そしてこれは日本語の本を読むときでも同じだという。

こんなふうに文体に慣れるということを通じて、われわれはその哲学者の思考を追思考(ナーハデンケン)し、そうすることによってものを考える習練をするのだと思う。

良くないのは、いろいろな本を読みかけては止めるようなことを繰り返すこと。本というのは読み始めが厄介なので、むしろ厄介なことをやっていることになってしまう。

著者はハイデガーの「存在と時間」を読みたい一心で勉強を続けてきたという話が綴られているのだが、結局一度読んでもよくわからないということで、そのまま研究を続けることになったという。この本の中盤から後半にかけては、そのハイデガーを中心にしていわゆる西洋哲学の沿革が述べられている。ちなみに著者はそこまでハイデガーの著書に惹かれて勉強を続けてきたにも関わらず、実際ハイデガー本人の人間性には魅力を感じず、会えそうな機会も敢えて断ったことがあったそうである。

哲学」に限らないはずだが、この本を読んでいても感じるのは、「考える」というのはやっぱり「言葉」が基本なのだなということだ。関係ないが、その意味で聖書が冒頭で「はじめに言葉があった」というのは(聖書でいうこの「言葉」とは言語としての言葉そのものではないのかもしれないが、それは別として)極めて示唆的だと思う。

それはともかく、日本人として言語からくる思考の違いというのを多く実感するのは「日本語で言えることが〜語では表現できない」という事態で、ともすると「日本語の表現力は素晴らしい」という話になってしまうわけだが、そういうことではなく、逆に言って他の言語を操る人は私からは文字通り想像もできない思考を持っている可能性が高いということであるはずだ。

この本でテーマになっている「哲学」はやはり「西洋哲学」であって、いわゆる「哲学」として学ばれているものは、西洋にだけ通じるものなのではないか、という疑問を著者はずっと持っていたそうである。例えば「理性」という言葉について理解できずに悩んだという。

もしこの理性が、われわれの考えているような生物的能力としての認知機能の一部だとすれば、これが「もっとも公平に分配されている」などということはありえない。

しかし、最終章で述べられるように、木田元は最終的にこの苦悩を乗り越えている。そこから他の著書で見られる「反哲学」という言葉に繋がっていくのだという。

「哲学」という学問や「哲学者」という人たちはどこか掴みどころがない。欧州ではある時代までは、宗教(キリスト教)と政治体制に後ろ盾を与えるという実質的役割を果たしていた面はあるかもしれないが、現代、特に日本に於いては「実務上役に立たたないもの」という印象すら持たれることがあるものだと思う(私自身どこかそう思っている)。

この本を読んで哲学についてその印象が根本的に変わったかということではないが、少なくとも哲学者というのは、圧倒的な歴史の積み重ねの上で議論を進める人たちのことなのだと思った。多くの言語に精通し他人の発言や記述から時代を超えて思想を引き出し読み解く。その違いや類似性を指摘して、そして全ての歴史を踏まえた上でスキのない結論を述べるにはどうしても新しい概念、言葉が必要になるので、哲学用語というのは常に不思議な新しいものが次々と出てくるということなのかもしれない。

物理学の発展についてを合わせて考えても、哲学上の議論とお互いに影響を与えあっていたことは明らかだと思う。物理学が哲学に与える影響というのはわかりやすいが、哲学が物理学に与える影響というのも間違いなくあると思う。むしろ西洋哲学は今の物理学に至る道をかなり前からはっきりとではなくても示唆していたか、親和性があっために欧州で物理学が、というか所謂科学的なもの全般が発展したとも考えられるのではないだろうか。

この本には物理学者の名前としてニュートンやマッハが出てくるが、アインシュタインの名前は一度も出てこなかった。時間が相対的であると言う話が出た時、同時代の哲学者たちはどう思ったのだろう。驚いただろうか、「何を今更当然のことを言ってるんだ?」と思っただけだっただろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿