2019年5月19日日曜日

豆腐雑感



豆腐について最近考えたこと。


私が自分で作れる料理に麻婆豆腐というのがある。ほぼレシピは固まっているが「本格」云々とかいうものではないし、特に工夫があるわけでもなく色々な本に乗っているレシピから得たものを自分で無理なく出来る範囲にまとめたものだ。もちろん自分ではすごく美味いと思って食べているが、すべての人を満足させるとかいうものでもないと思う。

それはともかく、私は麻婆豆腐以外にも豆腐の料理が好きなので、豆腐を使った料理を他にも作るしよく食べる。そして色々な豆腐屋が作った豆腐を食べる。それぞれ味や硬さが違うのはわかっているが、その評価は基本的には値段相応だと考えている。はっきり言えば値段を超えて評価するほど自分の舌に自信はない。

先日麻婆豆腐を作ろうと思って、近所の豆腐屋で買ってきた豆腐を開けようと包丁でパックの表面を切ったら一緒に豆腐の端の部分を切ってしまい、ひっくり返して取り出しても豆腐が少しパックに残ってしまった。もったいないので指ですくって食べたところ、豆の香りと豆腐の舌触りと旨味が口の中に広がって、それが異常なほどに美味かった。もちろんそれは誠実な豆腐屋が作っている良い豆腐なので美味くて当たり前だ。だが、どういうわけか料理として冷奴にして食べるよりもずっと美味しく感じた。況や麻婆豆腐などはこの豆腐の美味さを活かしているだろうか?もしかして麻婆豆腐など作るときはそんな立派な豆腐を使わなくても良いのではないだろうか?

美味しんぼ16巻の山岡さんの印象的なセリフに次のようなものがある

「素材の良さを損なわずに引き出すのが料理の基本だが、素材があまりに良い場合には、料理が素材に負けてしまうことがある。このカブは素晴らしいから、持ち味の50%を引き出しただけでも美味しい料理ができる。だが、50%しか引き出せないのでは料理の負けだ。」

何が言いたいかといえば、つまり私が作る麻婆豆腐のような料理は「料理が素材に負けている」のではないか、豆腐の美味さ(価値)を活かしきれていないのではないかという不安に陥った。不安に陥ったというか、間違いなくそうだ。

だが、考えてみれば豆腐は「豆腐」として食べる上ではそのまま食べるのがおそらく一番美味いはずだ。そして麻婆豆腐という料理には豆腐が必要であり、その豆腐が(論外なものは別として)多少安いものでも「たいして変わらない」ということは言えるのかもしれない。だが、「たいして変わらない」としても豆腐が美味いことに越したことはないはずだ。だから、あくまで麻婆豆腐としての完成度を目指す限り、豆腐を生で突然食べた時の感動をそのまま料理の中に感じられないことに不満を持つのは筋が違うと考えるしかないのかもしれない。本当にそれで良いのだろうか。

北大路魯山人は「鮑の水貝」というコラムで次のような話をしている

ものの味から言うと、生で食べられるものは出来るだけ生、または生に近い方法で食べたほうが美味い。煮たり焼いたり、手を加えるほど味が崩れることを知っておくことが肝心だ。

豆腐についても豆腐そのものとして評価した場合「手を加えるほど味が崩れる」というのはおそらく真理であろう。だが、出来上がる料理全体の一部としての豆腐の存在というのはそれはそれで大切なものだ。

人間でも複数人が協力し合ってする仕事というのは、人数が増えれば増えるほど効率は悪くなり単純に人数の分だけ捗るということはなくなるし、個人としての個性や能力は発揮しにくくなる。それでも、当たり前だが、複数人が協力すれば1人ではできないことが実現できる。複数人で協力し合うときには、その前提の中でも人間の個性と個人としての能力は必要不可欠なことに変わりはなく、如何に効率を良くして個人の個性と能力を最大限活かすにはどうしたら良いかということが人類としての永遠の課題のはずである。

今回のケースから考えるべきこととして、豆腐を「冷奴」として食べる際に更に工夫が必要だということがある。とりあえず少し小さめに切ってみるべきかな。

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