加藤周一と丸山眞男
日本近代の〈知〉と〈個人〉
樋口陽一 著
2014年12月17日 初版第1刷
憲法学者樋口陽一は著書がそれなりに多く、もちろん全て憲法学の本だが割と楽に読める本も出している。読みやすさとわかりやすさの上では2000年の新書「個人と国家―今なぜ立憲主義か」という本が個人的に気に入っている。今回読んだこの本は樋口陽一の憲法学を直接ではなく加藤周一と丸山眞男を通して語る少し毛色の変わった本である。
この本は3つの章のうち基本的に1が加藤周一について、2が丸山眞男についての講演の書き起こしであり、3で両者含めた論点を整理するという形になっている。その後に、両名と個人的に付き合いがあったという樋口陽一が、個人的な思い出話などを少し書いている。本の全体像としては、樋口陽一が加藤周一、丸山真男の思想を通して、現代の社会の問題点を浮かび上がらせて、その上で相対的に自身の考えを述べるという形をとっている。
過去の思想家の考えを現代の社会に投影して考えることは簡単なことではない。例えば私自身が丸山真男や加藤周一の古い著作を読んで、それを現代の社会問題に対応させて考えるというのはかなり高度な理解力と知識と思考を要するはずで、「なんとなく」以上に整理して考えることは難しいと思う。
逆に言えば、こうした本で樋口陽一が、過去の偉大な思想家の業績を紹介しながら、現代の問題に思いを巡らし、自身の考えに繋いでいくのは読む側としてはありがたい。
樋口陽一が丸山眞男に言われたこととして
「ヨーロッパの伝統を語る人は、キリスト教が非ヨーロッパ地域に発生したことを全然問題にしていない」ということの重要さを指摘して下さった一節がある。ヨーロッパ出自の立憲主義に、非ヨーロッパ地域の研究者としてかかわっている私にとって、この一節は、いつも静かなはげましとなっている。
哲学者の木田元も「西洋文化形成のイデオロギーともいうべき哲学を日本で勉強することの違和感」というのを感じていて、それを「反哲学」として克服した経緯が著書に書かれていたが、極めて行くとこういう考えで躓くものなのだろうか。敢えて比べるなら哲学よりは憲法学の方が日本人としては身近な気がするのではないだろうかと思った。いや、実のところこの辺は一蓮托生なのかもしれないとか言ってしまっては話が雑過ぎるだろうか。
何れにせよ、丸山眞男の言いたいことも樋口陽一が受け取ったことも木田元が行き着いた「反哲学」の立場に近いものなのではないだろうか。
そして加藤周一は
「われわれ自身の民主主義を、西洋の手本より、ある意味でましなものにつくりあげたいと望む理由がある」
とはっきり言う。そしてそれをつくりあげるにはどうすれば良いのか、というのがこの本の出発点である。
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