2019年8月14日水曜日

漱石を知っていますか


漱石を知っていますか
阿刀田高 著


2017年12月20日 発行

もちろん漱石の存在は知っているし、本も読んだことはあるが、それほど興味を持っていなかった。それゆえに阿刀田高のこの本の存在も知っていたが、あまり興味を持っていなかった。だが、考えてみれば、阿刀田高のこのシリーズの本はそもそも漱石が好きでしょうがないとか、そういう人が読むような本ではなく、名前だけ知ってるけど書いたものは殆ど知らない、という私のための本ではなかろうかと考え直して読んでみた。結果的にはその通りで、読んで良かったと思った。

夏目漱石がどのくらい小説を残しているのかは知らないが、時代順に「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「」「夢十夜」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」が順に紹介されている。ネタバレしないようにとかいう配慮はなく、引用も多く、この本を読むと上の本のあらすじから終わり方までだいたいわかる。

個人的には子供の頃に「吾輩は猫である」を少なくとも冒頭は読んだことがあるのと、おそらく10年前くらいに「こころ」を読んだだけである。「吾輩は猫である」は小学校の教室に置いてあって、とりあえず冒頭は覚えていて、「意外と読めそうだ」というなんとなく良い印象も残っているのだが、当時の自分の嗜好と教室に置いてあったという状況から考えて全部読んだとは思い難い。阿刀田高は「吾輩は猫である」について

あえて言おう。〈猫〉は第一章を読めばだいたいわかる。この〈知っていますか〉でお茶を濁すのも一つの方便だろう。

と言い、少なくともいち作品としては高い評価を与えていない。おそらく冒頭しか印象がない、というのも珍しい感想ではないのだろう。敢えていうなら、この阿刀田高の本で紹介されている「下へ来ると首が縊りたくなる松の木」の話は面白かった。

続くのは「坊っちゃん」だが、この本であらすじを知って色々驚いたことがあったので、青空文庫で本体を読んでみた。それほど長くない上に、一人称で筋は単純、文章も綺麗ですぐ読める。

この話は明言はされていないものの、状況からしても、現代の既成事実としても愛媛県松山市を舞台にした話である。「松山坊っちゃんスタジアム」とかが存在していることからもそのくらいのことはわかっていた。それにしてもこの本の中での夏目漱石の松山に対する扱いが酷い。確かに主人公である坊っちゃんに対する周囲の人の扱いも酷いのだが、それを土地のせいにして堂々と批判している節がある上に、その批判になんの猶予も与えていない。阿刀田高もそのことを考えている。

現在なら小説家が地方の都市についてこんな印象をあからさまに書いたら、
ー気に入らんなあー
ゆかりのある人の顰蹙を買うことは疑いないところだが、漱石のころはどうだったのか。
そして今、松山市とその周辺を尋ねると、坊っちゃん電車は走っているし、道後温泉も〈坊っちゃん〉との関わりを誇っているし、文学碑、観光施設、みやげもの…すこぶる好意的である。

松山と「坊っちゃん」や漱石との関係についてはわからないが、ここに至るまではそう一筋縄ではいかなかったのではないだろうか。「坊っちゃん」を読んでいると、その舞台となった地方都市(あくまで松山ではなくその場所でしかないが)の風土も住んでいる人の気質も嫌になる。最終的にこの地を離れた坊っちゃんは「この不浄な地を離れた」とまで言い放っている。逆に、自分にゆかりのある土地をこのように書かれたら自分はどう思うのだろう、それは一筋縄では受け入れられないだろうなと思う。

もちろん今の松山の状況は確定しているのだから、心配するようなことではないし、夏目漱石という過去の大物が書いていることはまた別次元のこととして受け入れられるものなのかもしれない。そんな心配はしつつも、何にせよ急に読んだ「坊っちゃん」は意外と楽しめた。

その次に紹介されているのが「草枕」で、この話も主人公の画家に漱石本人が投影されていて、彼が出会う進歩的な女性にもモデルがいるらしい。それは自由民権運動に関わったという前田案山子という政治家の娘で、前田卓(つな)という人だそうである。もちろんこの人のことは全く知らなかったが、彼女はその後、孫文らを支援して辛亥革命にも関わったという。孫文というと犬養道子も縁があったようなので、どこかに繋がりがあるかもしれないと考えたが特に見つけられなかった。前田卓は1938年に没していて、犬養道子は1921年生まれなので、まあ面識くらいはあったかもしれない。

かつて自分が読んだ「こころ」も含めて、ここから後の漱石の作品は男女の関係が主題であることが強調されていく。

”小説とは、男と女のこことを語るものです”
 確か山口瞳さんの言葉だったと思おう。谷崎潤一郎、川端康成、渡辺淳一 ……。もちろん例外は山ほどあるけれど、小説は男と女のことを描いたときにこそ魅力を発揮する。

この言い分はよくわかる。推理小説でも、時代小説でも、歴史小説でも、そこに恋愛が絡んでくると一気に魅力的なものになるし、その取り入れ方が上手い小説家が個人的にも好きだ。だが、どうしても男女が恋愛に、そしてお互いについて悩んでいることが主題の小説というのは個人的には苦手である。どうしても集中できない。年齢的なこともあるかもしれないが、若い時なら尚更敬遠したような気もする。明らかな自分の「弱点」なので、いつかは克服すべきものなのかもしれないが、読書に関してそこまでの胆力はない。その意味で、漱石の「三四郎」以降はとりあえず当分は、〈知っていますか〉でお茶を濁す方が良さそうな気がする。


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