2019年6月9日日曜日

ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか


内村鑑三 著
河野純治 訳


2015年3月20日 初版第1刷発行

この本は元々英語で書かれているそうで、原題は「How I Became a Christian」、過去の訳本には「余は如何にして基督信徒となりし乎 」という題名で知られる。内村鑑三(1861-1930)が大学に入学してキリスト教徒になり、日本でキリスト教徒として活動したのち、迷いを重ねて憧れの地であったアメリカに渡る。そこで様々な経験を経て帰ってくるところまでを書いた本である。

内村が入学する大学は今の北海道大学の前身である札幌農学校で、かの「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士がいた学校。博士は一年遅れで内村とは直接接点はないようだが、一年上の学生はクラークによって既にキリスト教徒になっていた人が多く、その先輩からの圧力によって半ば強制的に内村と同級生たちは集団的にキリスト教徒になる。

この同級生たちは軒並み有能で後に活躍した人も多い。その中には新渡戸稲造もいて、その新渡戸稲造を始め、多くの人はキリスト教徒としてそれぞれの分野で名を挙げたようだが、その中でおそらく内村だけが特にキリスト教にのめり込み、深みに嵌っていったようだ。

内村は卒業後官吏としても仕事をしながら、東京でもキリスト教の布教活動を行い、迷いを重ねてアメリカに渡る。憧れのアメリカに渡って、そこで幻滅したり、歓喜したり、文字通り一喜一憂している様子がこの本には具に書かれている。

この本は内村鑑三がまだ30代前半の頃に発表されたもの。この本の面白さは、内村の理想や伝聞から現実に直面した時の一喜一憂が非常に素直に書かれているところだと思う。様々な偉人のあり方、宗教上の有名人の発言や行動などが引用され深い教養が感じられるが、それよりも自分の日記を引用して自分の迷いと喜び幻滅を書いている部分が面白く、「内村鑑三」という存在がかなり身近に感じられる。最終的に、内村は、日本はキリスト教国でないからこそ、既存のキリスト教国よりもキリスト教によって高みに登ることができると考えているようである。

読み終わってから気づいたが、この本の訳者河野純治は、このブログで一番最初に読んだ「アル・ジャジーラ:報道の戦争」の訳者と同じ人だった。また、社会学者の橋爪大三郎がこの本の巻末に「解説」を書いているが、内村のキリスト教徒としての姿勢について、割と厳し目に見ているのが面白かった。

橋爪大三郎は内村鑑三は結局キリスト教徒になり得ていないのではないかとまで言っている。本文を読んでいるときはそこまで考えなかったが、言われてみれば確かに内村鑑三はキリスト教の教義を信じようとしてはいるが、そこにいる誰かの言うことを単純に信じているだけではないし、様々に分かれたプロテスタント教会の宗派を捌ききれないでいる。

内村鑑三の存在や考え方をどう評価すればよいのかはわからない。キリスト教的にどうかというと更に違う話になるのだろう。だが、彼がキリスト教的な価値観とそれを基本にした西洋的価値観から学んだことは、文字通りこの本で見られるように悩みながら一喜一憂して「自分で考え抜く」ということだったのではないだろうか。それ自体はキリスト教的であるかどうかはよくわからないが、もっと広い意味で内村鑑三は人間のあるべきところに到達したのかもしれないと言ったら大げさだろうか。


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