2019年6月13日木曜日

父と暮せば


父と暮せば
井上ひさし 著


2001/1/30

言わずとしれた井上ひさしの「父と暮せば」を、今更読んだ。上の日付はこの文庫が発行された時で、Wikipediaによると、劇の初演は1994年だそうである。以前読んだ阿刀田高の本でこの話のあらすじが紹介されていて、興味を持った。映画の予告編くらいは見たことがあったが、正直結構陰鬱な話なのかと誤解していたのだった。流石に小気味良い戯曲で長くもなく、息つく間もなく読み終わった。

なんとなく、この出てくる父・竹造がいずれ出てこなくなる時がきたら娘・美津江は寂しい思いをするのではないか、などと余計なことを考えていた。井上ひさしは後書きに次のように書いている。

そこで、じつによく知られた「一人二役」という手法に助けてもらうことにしました。美津江を「(しあわせになってはいけないと、自分を)いましめる娘」と「(しあわせになりたいと)願う娘」にまず分ける。そして対立させてドラマをつくる。しかし一人の女優さんが演じ分けるのはたいへんですから、亡くなった者たちの代表として、彼女の父親に「願う娘」を演じてもらおうと思いつきました。べつに云えば、「娘のしあわせを願う父」は、美津江のこころの中の幻なのです。

確かに劇中でも竹造は自分で自分は娘の気持ちから生まれたのだと言っている。だが、読んでいると、竹造は美津江の完全な幻想というようなものではなく、死んだ竹造を代弁している存在でもある。だからこそ、出なくなってしまったら美津江は寂しい思いをするのではないかという気がするのだが、作者である井上ひさしがこう言っている以上、美津江が幸せになれば竹造の役割は終わる。おそらく、この竹造の存在にはいなくなって寂しくなるという概念は当てはまらないのだろう。

ちなみに周囲の人達が多く亡くなった中で生き残った人が感じる罪悪感は「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」と言い、現在はPTSDの一種とされているそうだ。

自殺を試みて生き延びたことに感じる罪の意識

映画も見てみたいが、宮沢りえと原田芳雄というのはわりとシリアスさに寄った配役のようにも見える。



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