2019年6月25日火曜日

プラトンいろいろ



プラトンに関係する本をいろいろ読んだがよくわからなかった。


プラトンの『国家』
サイモン・ブラックバーン 著
木田元 訳

2007年12月10日 第1刷発行

テアイテトス
プラトン 著
渡辺邦夫 訳

2019年1月20日 初版第1刷発行

プロタゴラス
プラトン 著
中澤務 訳

2010年12月20日 初版第1刷発行

プラトンの『国家』」はイギリスの哲学者サイモン・ブラックバーンがプラトンの著書「国家」について書いた本。一応全部読んだものの、正直何が何だかわからなかった。例えばアマゾンのレビューを見てても特に難しい本というわけではないようで、おそらく私自身に何か足りない部分があるに違いないと考えた。結局それは「国家」自体をかいつまんでも読んでもいないことに問題があるのだろうと考えていた。

にもかかわらず次に手にとったのが「テアイテトス」だったのはなぜかはともかく、プラトンの著書そのものを読んでみる必要は感じていた。この「テアイテトス」の文庫本は500ページにも及ぶ重厚な本(4分の1程度は解説)で、プラトンによる所謂「対話篇」であり、「知識」について考察するというものだが、正直ついていくのも難しいものだった。これはおそらく一般的にも難解な本なのではないだろうか。

そして短めのものを探して読んだのが「プロタゴラス」だった。これもプラトンによる対話篇だが「プロタゴラス」は人名で「テアイテトス」にも登場(死んだ後だが)した所謂「ソフィスト」で、「万物の尺度は人間である」という相対的な理論を唱えた人でその主張に興味を持ったのでこれを読んでみた。

この「プロタゴラス」でようやくプラトンの哲学に触れた気がした。プロタゴラス自身はテアイテトスでいう相対的な見解を特に示してはいないし、議論の進め方に釈然としない部分は多々あるのだが、対話を通して考えを進めていくという方法論はわかったし、物語としても面白いものだった。

印象に残ったのはそのプロタゴラスの言葉として

わたしが思うに人間教育における最も重要な部分とは、詩歌を解する能力である。それはどんなものかといえば、詩人たちによって語られた言葉について、正しく語られているものとそうでないものを把握できること、そして両者を区別して、質問されたら説明できるということだ。

話の流れの中で語られていることで、これが絶対的な結論という話ではない。だが、思えば中国の科挙でも四書五経は重要視されていたし、日本でもある時代までは、私たちが今でも触れることがある近代の作家などは古代、中世の詩歌の類をよく知っていて、それこそが教養として生かされていた印象が伺える。現代でもそうしたものを生活の中で引用できる人がいれば大いに感心してしまうものだ。

振り返って自分はどうかと言うと、物凄く苦手な分野である。日本の古典は受験勉強で無理やり覚えた以上の知識はないし、例えば小説のなかで詩の引用が登場するとそれだけで「うえっ」となってしまうくらい苦手で、読み飛ばすことも多い。逆に言うとそれだけ「詩」には強い力があるのだろうといつも思っているのだが、それに取り組もうと思ったことはない。プラトンと共に個人的に乗り越えるべき壁なのかもしれない。

そして通して思ったのは、哲学というのが「言語」とか「言葉」で成り立っている以上、こうした本は訳の影響力というのは無視できず、おそらくプラトンの思想を自分で直接理解するためにはギリシャ語で読むしかないのだろうとも感じた。訳者はいずれも哲学の研究者で解説も自分で書いていて、ある意味その解釈を本にしている面もあるのだろうと感じた。それが悪いことだと感じたわけではない。同時に翻訳の専門家ではなく哲学者が訳しているという事実に、結局哲学に深入りするということは多くの言語と向き合うことになるということを象徴しているのだろうなとも思った。




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