ソクラテスの弁明
プラトン 著
納富信留 訳・解説
2012年9月20日 初版第1刷発行
プラトンが書いた「ソクラテスの弁明」は短い話で、基本的にソクラテス1人が喋っている。印象としてはソクラテスを通してプラトンの思想が表されているというよりはプラトンの師匠であるソクラテスの生き様を伝える内容である。
「ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している。」
という内容でソクラテスは告発され、裁判にかけられる。結局判決によって死刑にされてしまうのだが、その裁判の時の本人の言い分がこの「ソクラテスの弁明」ということになる。ソクラテスは自分が何故憎まれているのかを説明し、それが如何に理に適っていないのかをわかりやすく述べている。
ソクラテスに対する告発には一応裏があり、その直前にソクラテスの弟子の1人だったアルキビアデスのような人が、アテナイを混乱させたというか辱めた行為を行っていることが理由の1つと言われている。その意味で「若者を堕落させる」ということだったのだろうが、アルキビアデスは既に亡く、処罰も済んでいてこの裁判で話題にすることは許されないという事情があったという。
解説によると真偽の程は確かではないそうだが、ソクラテスが若い頃に友人カイレフォンがデルフォイの神殿に信託を伺い「ソクラテスより知恵がある者は誰もいない」という答えを得る。ソクラテスはそのことから知恵があるとはどういうことかと悩み、知恵があるとされる人たちに会って回る、というか論争を仕掛けて回ることになる。
この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で
ソクラテスは「自分は知らないのだ」ということを前提にして相手に喋らせるので、論戦には非常に強い、それ故に憎まれた、というのは(死刑にするべきかどうかは別として)なんとなくわかるような気がする。知らないのだから、知りたい、知ることを愛する、「愛知」という言葉がもともとのフィロソフィーの意味だそうである。それを哲学と訳したのは西周という人だそうだが、それは誤訳だという話もある。
日本語でいうと「無知の知」という言葉がある。この本の訳者である納富信留が解説に書いているが、それとソクラテスの「知を愛すること」とは違うそうである。この本の中では「知らないことを知っている」とは絶対に書かれておらず、そこは元の言語でも厳密にそうなっているそうだ。おそらく「無知」である以上は「知」ではあり得ないわけで、少なくともソクラテスの「愛知」を「無知の知」と呼ぶのは間違っているということだろう。
個人的には「無知の知」という言葉は日本語としては好きなので、ソクラテスの愛知とは関係なく「自分は何も知らないことを知っている」という単純な意味ではこの言葉には理があると思っている。余談だが「無知の知」とは「知るべきではないことは知らなくていい」という意味ではない。
この本はもちろんソクラテスとプラトンの哲学入門という意味でわかりやすい本だが、それ以上に文学作品として面白い。結果的にこの後、ソクラテスは処刑されてしまうわけだが、その処刑についてはその後も議論が続き、プラトンはその中でこの本を書いたそうである。もちろん処刑されてしまうのは残念なことだが、それはイエス・キリストと同じで、ソクラテスの処刑がなければ、ソクラテス、プラトンからアリストテレスへと続く今にまで至る名声は存在しなかったかもしれない。
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