2019年7月21日日曜日

饗宴


饗宴
プラトン 著
中澤務 訳・解説


2013年9月20日 初版第1刷発行

「饗宴」はプラトンの著書の中でも名著の1つとされる。文学的な価値が高い本で、読んでみてもその印象が強かった。面白かったのだが、哲学的な示唆を読み取るのは私には難しかったかもしれない。基本的な内容はソクラテスを含む賢人たちが集まって「饗宴」と呼ばれるパーティのような場で1人ずつ「エロス」について賛美の演説をしていくというもの。「エロス」というのはギリシャ神話の神の1人だが、字面の印象の通り愛情とか愛欲とか性的な特徴を持ったものである。

「エロス」というと神様そのものではなく言葉として、特に肉体的な愛情を表すこともある。この話ではあくまでそういう名前の神様について語っているはずだが、人間の愛欲そのものについて語っているように読める部分もある。逆に言うと、ギリシャ神話の神々というのはそうした人間の精神活動個々について割り当てられるような形で存在しているのかもしれない。

この本は、ソクラテスの弟子の1人であるアポロドロスが、その「饗宴」に参加していたアリストデモスに聞いた話を友達に語っているという、聞いた話を聞かせている話である。時間的なことははっきりしないようだが、この「饗宴」が開催されたのはアポロドロスが話している時点よりも10年程度過去のことであろうということだ。プラトンがこの本を書く上では、この時間的な隔たりを持たせる必要も、「また聞き」にする必要も特になかったと思うのだが、あえてこうした理由を考えてみるなら、特に実在の人物たちが語る話なので、「その場にいた人が直後に語っている」ような信憑性の高い書き方はしたくなかったのだろうか。

ソクラテスが話をする前に、5人の演説が書かれている。これもそれぞれの社会的地位、年齢、人間関係を反映したもので、本当にプラトンが1人で書いたのかと疑いたくなるほど特徴のある話をしている。その中でも特に世界史でも習う喜劇作家アリストファネスの話が奇をてらっていて面白く印象的である。ちなみにアリストファネスは「ソクラテスの弁明」では、ソクラテスが、みんなが自分の陰口を言っているが何を言っているかはわからない、という話の中で「1人偶然にも喜劇作家だった人を除いて」というようなことを言っている。「饗宴」の中では仲良く話をしている。

ソクラテスの話は、珍しくソクラテス自身がディオティマという女性に教えを請うような形の話になっている。この形をとったのはディオティマの語る話が「ソクラテスの対話による論理的探求を超越した側面も持っている」からではないか、と解説されている。このディオティマの話こそプラトンの「イデア論」に繋がる話なのだが、そこが個人的にはやや掴みきれなかった。そしてその後、酔っ払ったアルキビアデスが乱入してその場は急展開するのだが、この後はおそらく哲学というよりは当時の時勢や、文学的な面白さに偏っているように読める。

この本の「エロス」の中心になっているのは所謂「少年愛」である。その「少年愛」とは何かについて、前書きにはこう書かれている。

少年愛(パイデラスティア)と呼ばれる恋愛も一般的なものでした。それは、成人した男性が、成人前の12〜18歳くらいの少年と恋愛関係を結ぶもので、現代における同性愛とはさまざまな点で異なる側面を持つ、独特の性風習です。

後書きの解説にもあるが、この「少年愛」というのは制度的には教育を目的とした側面もあったようだが、エロスである以上は性行為を前提としたもので、正直に言えば不気味な感じを受けざるを得ない。それも、この「饗宴」の中では「そういう人もいる」というのではなく、その場の総意として「そうあるべきだ」という形で書かれていて、その一般性に驚かされる。一応後書きには、こうしたものについて当時の社会の中に批判的な見方もあったことが書かれている。また、プラトンが描くソクラテスは、その「少年愛」を賛美する中にいるものの自分は体よく避けているように見えなくもない。

「少年愛」を敢えて分割すれば「大人が少年を愛する」「男性が男性を愛する」ということに分けられる。前者はなんであれ現代的価値観からすれば問題であることに議論の余地はなく、これを歴史の話と割り切って偉人の話として受け入れるのは簡単ではない。後者についても私個人は正直に言えば特に「男性同士の恋愛関係」について違和感はどうしても拭えない。その感覚が差別的だという誹りを免れないのであれば受け入れるしかない。ただ、こうしたものに自分自身が感じる違和感とか不気味さというのは「未知のもの」「良く知らない世界」に対するもので、身近に誰かそういう人がいたり社会が変化すれば変わるものだろう。何が言いたいかというと、例えば「同性婚」という制度を考える上で「社会の理解が進んでから制度を作る」というのは明らかに順番が間違いで、無関係な人に害があるものでなく、それを必要としている人たちがいる以上は制度が先にあるべきで、そうでないといつまでも私のような人の意識は変わらない。

以前、別な方のブログで訳した記事で、ある本の筆者がこんなことを話していた。

私は常々同性愛が進化を通して成り立ってきた方法を疑問に思っていました。進化論では人々は魅力的な異性と交際することを望んでいることになっていませんか?

そして同じ記事によると、アメリカの既婚男性の98%は異性愛者であるという、ということは2%は同性愛者かバイセクシャルなどであるということになる。「饗宴」の中にも出てくるが、「少年愛」を賛美する人たちも子供を残さないわけではない。つまり、歴史的にもおそらく現代でも同性愛者というのは子供を残さないわけではない。だが、一般的な推測として同性愛者が子供を残す可能性は低いということは言えそうな気がする。

そして仮に性的指向がある程度遺伝するものであるとするならば、古代ギリシャ時代は今現代よりも本当の意味で同性愛者やバイセクシャルの割合が高かったという仮説が成り立つのではないだろうか。

 参考 - 【遺伝学】男性の性的指向と遺伝的要因との関連を探索する

近代の同性愛が犯罪だった時代には、そのことを隠して結婚し子供を持つ人も多かったはずだ。現代に至り、これから更に個人の指向としての同性愛についてオープンにすることが普通になり、同性婚の制度が広まることで同性愛者、特に男性の同性愛者が子孫に遺伝子を伝える可能性は下がるのではないだろうか? だとすると同性愛者に優しい社会というのは、非常に長い目で見て将来的に同性愛者の数を減らすことに繋がるという想定ができそうな気もする。

話はかなりズレたが、「饗宴」は話として高度で面白いのはわかるのだが、個人的にこの「少年愛」の価値観が衝撃的過ぎて、中々受け入れられなかった。エロス賛美の相手を女性に置き換えて読めば良いと言うような内容でもない。一旦自分の中でそのことを整理してから、ディオティマとソクラテスの話を聞く必要があるかもしれない。


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