2019年9月12日木曜日

四千万歩の男(一)


四千万歩の男(一)
井上ひさし 著



1992年11月15日第1刷発行

井上ひさしの「四千万歩の男」は伊能忠敬について書かれた本である。発行年は文庫版のもので、この小説自体の発表は1986年となっている。伊能忠敬は江戸時代に日本中を歩き回って測量し、正確な日本地図を作った人。この人の面白いところは、元々は商人であり、隠居の身になってからこの仕事を始めて、最初に測量旅行に出かけたのが56才の時だったという。それで、その旅は72才まで続けられたそうだ。

この本はそのまだ第1巻で、それを読み終わったところである。そして、全部で5巻まである。何よりこの1巻が、文庫本で実に663ページもある長大なものであり、2巻以降をまだ手に取っていないのだが、見た限りでは他の巻も1巻と同程度の長さがあるように見えた。井上ひさしがこんな大長編を書いていたとは意外だった。同じく全5巻完結の宮城谷昌光の「孟嘗君」を読んだ時に、おそらく自分が今まで読んだ一貫した小説としては最も長いだろうと思ったが、おそらく「四千万歩の男」を5巻まで全部読めば記録はあっさり塗り替えられるであろう。書きながら思い出したが、長い小説という意味では山岡荘八の「徳川家康」も読んだことはあるのだが、全部は読んでいない。

この小説は完全に伊能忠敬を中心に据えたもので、既に56才になった時点から始まる。それ以前のことについては、本人の追想の中で語られている。序盤の舞台は基本的に江戸の市井であり、忠敬は商人らしく世間ずれした人物で落ち着いた性分である。彼は天文学を学び、地球の子午線の正確な長さを測りたいという希望を持っている。そして、色々あった末に幕府の役人として蝦夷(今の北海道)の地図を作るという名目で、本人としては子午線の長さを測る旅に出る。徒歩で行われるその旅が本州の端に至って津軽海峡を渡ろうかというところでこの1巻は終わっている。1巻が終わった時点で始まってから1年経っておらず、まだ忠敬は56才である。

旅に出る前の江戸では、忠敬の3人目の妻である女郎上がりの「お栄」(「20才若い」と言ってるので30代半ばくらいか)の他、天文学の師匠である高橋至時、機材について協力してくれる時計屋、実家の商家の若い衆など、史実上の人とおそらくオリジナルの人含めて魅力的な登場人物が色々出てくる。その中で、一緒に旅に出る特徴的な仲間たちが徐々に集まっていくのだが、そのあたりも如何にも冒険小説の序盤という感じでどこかワクワクさせられるものだった。江戸時代の江戸の市井ということで個人的には藤沢周平の世界観を思い出すが、全体としてはそれよりも明るさが目立つだろうか。

忠敬が旅に出るまでも、旅に出てからも当然ながら一筋縄ではいかず、様々な困難、出会いがある。本人も、測量の旅に出てこうも人間に悩まされるものか、と悩んだりもしているがそこは小説なのでいちいち面白い展開になっている。途中「お捨」という若い女性に危難を救われ、身寄りのない彼女を江戸に送り込む、おそらく彼女は今後また出てくるのだろう。それもまた楽しみである。

一番最初に井上ひさしが書いている通り伊能忠敬の活動が細々と書かれていて、むしろ最初から長い小説にしてやろう、くらいの意気込みが感じられる。登場する実在の人物の実績、行く先の土地の歴史、あるいは当時の天文学、測量の方法論なども盛り込まれているし、資料や詩歌や俳句などの引用も少なくないが、特にそのことがこの本を読みにくくしているわけではなくむしろ興味を惹かれる。

井上ひさしは伊能忠敬に興味を持ったのは1977年のことだったと書いている。井上ひさしは1934年生まれなので、44才の時ということになる。そしてこの本を発表したのが1986年ということになっているので、53才の時である。井上ひさしは自分の中の変化で歳を重ねてから若い頃よりも伊能忠敬に興味を持つようになったという。穿った見方をするならば、井上ひさしはおそらく、中年(当時だったら老年か)伊能忠敬自身の徹底して地道な活動を、この本を書くこと自体で追体験しようとしたのではないだろうか。




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